タダマンの曖昧な対象
たとえば、風俗嬢であるとか、出会い系などで交渉することになる「割り切り」や「支援希望」の女性、少し前の世代には懐かしい響きである「援助交際」をする若い女の子たちのような相手とのセックスにおいては、かならず「金」が発生します。
「タダマン」という「お金のかからないセックス」を求めるタイプの男性は、おそらくは、このような「金」がかならず発生するセックスに嫌気がさしている層であるでしょう。
「タダマン」が先だったのか、「金がかかるセックス」が先だったのかは、おそらく、その「行為」の先行性だけを見るならば「タダマン」と呼ばれるようなセックスが先だったことは明らかなのですが、「タダマン」という「言葉」に関しては、いささか事情が違ってくることになるでしょう。
というのも、「タダマン」という言葉は、「金がかかるセックス」が登場してから改めて開発された言葉であるからです。
セックスとお金と人格の問題
行為の出発点としては、「金がかかるセックス」よりも先行して行われていたにも関わらず、言葉の領域においては、「金がかかるセックス」と区別をつけるために新たに「タダマン」という言葉を作られなければなりませんでした。
この「タダマン」という言葉は、そのような言葉が出てきてしまった以上、単に「お金がかからないお得なセックス」とだけ都合よく考えて片付けてしまうことができないような問題をはらみはじめることになるのではないかと思います。
「タダマン」という言葉をめぐっては、「セックスと愛」、あるいは「セックスとお金」に関する思考を避けることができません。
「『タダマン』という言葉が出てくるような『セックス』とはどのようなものなのか」という「性行為を通した人間関係」の問題を「タダマン」という言葉は突きつけてくるように私には思われます。
「セックスと愛」であろうと「セックスとお金」であろうと、「タダマン」にまつわる思考は、最終的には、おそらくは「性と人格の分離」についての地点へと落ち着いていくことになるでしょう。
金がかかるセックスとはどのようなものか
「タダマン」について考えていくためには、「タダマン」という言葉を誕生させることにもなった「金がかかるセックス」について、考えていくのが有効であると思います。
冒頭でも書いたように、「金がかかるセックス」というのは、風俗嬢とのセックス、出会い系での「割り切り」の女性とのセックス、「援助交際」のセックスなどのことを指します。
彼女たちと性行為をするためになぜ「金」がかかってしまうのか、ということについて考える男性は、もしかすると、あまり多くはないかもしれません。
「金がかかるセックス」に対しては、ただ「そういうことになっている」のだし、「お金を払えば性行為ができる」のだから、「本当は支払いたくはない」のだが、「セックスはしたい」ので、「しぶしぶお金を払っている」というような男性がほとんどかもしれません。
「タダマン」という言葉は、おそらくは、この「しぶしぶお金を払っている」というような感覚から出てきた言葉であるように私には思われます。
男性は、セックスの場面において「金」を支払うことを要求される。「金」の対価として「セックス」の機会を得る。
「セックス」がしたいから「しぶしぶお金を払うしかない」が、本当は、できれば「金」を支払いたくはない。
つまり、「タダマン」がしたい。
「タダマン」という言葉が発生するまでの流れは、大まかに言うと、このようなものだったのではないかと私は思います。
こういった「タダマン」を求める男性の論拠としては、「恋人」や「結婚相手」であれば「金」を支払うことなくセックスができるのであるから、本来、セックスというのはお金を払わずに行うものであるべきだ、それが「自然」というものだ、というものが考えられるのですが、これについては多少批判もありますから、あらためて後述しましょう。
まずは「セックス」と「金」について考えなければなりません。
金がセックスからぬぐいさるもの
「セックス」に「金」がかかるというのは、「セックスをすることで女性が儲けたいから、そうなっているのだ」という単純な話ではないように思われます。
結果的に、女性が「金がかかるセックス」を通して経済的な利益を得ているために、そのような「金稼ぎ」の側面ばかりが見えやすくなる、というだけで、私は、「セックス」と「金」というのは、セックスを行う女性の「人格」にまつわる問題に繋がっていく話だと私は考えています。
それはどういうことか。
この「セックス」と「人格」について考えていくためには、やはり、風俗嬢や援交少女のような存在の側にある程度身を寄せて思考していく必要があるでしょう。
風俗嬢というのは、不特定多数の男性と性行為を行わなければなりません。そのなかには、「とてもセックスしたくない」と感じるような男性もいるでしょう。
むしろ、「セックスしたい」と感じる男性はほとんどいない、と言い換えたほうがいいかもしれません。
援交少女の場合は、性的にはまったく興味が持てないような、ともすると嫌悪や吐き気を催すような「オヤジ」というものに自らの性を差し出さなければならないのであって、セックスなしで済ますことができれば、それに越したことはない、と考えているでしょう。
しかし、彼女たちは、それらの「とてもセックスできないような男性」に、自らの身体を差し出し、セックスを提供するわけです。
これはどういうことなのか。
それに対して、「お金をもらっているのだから当然だ」というのであれば、どうして「不可能」と思えたものが、たかが「お金」ごときで、「当然」になるのかを考えなければならないように思います。
ここで、「人格」というものが浮き彫りになってくるわけです。結論から言ってしまうと、「金」というのは、望まない「セックス」をする場面において、「セックス」という行為のなかから女性の「人格」を取り払う機能を持つのです。
金がかかるセックスにおける男性と女性の齟齬
「これはお金が支払われたセックス」という感覚、「セックス」における「金」の感覚は、「お金を支払った男性」以上に、「お金を支払われた女性」のほうが強く意識することになります。
ものすごく荒々しく単純化してしまうと、「これはお金が支払われることによってしぶしぶ行ったセックスであるのだから、ここに、愛情や、私の『人格』が介在する余地はない」というような気持ちの切り替えが、「金」によって女性に与えられるのです。
これは、さきほどの「しぶしぶお金を払っている」という男性の態度と、ほとんど裏返しの態度であると言っていいでしょう。
「金がかかるセックス」に対しては、ただの「金銭的な交換」でしかないのだから、「お金を払われている以上、愛情などはまるでない」のだから、「本当はセックスしたくはない」のだが「金銭は手に入る」ので、「しぶしぶセックスをする」というのが、おそらくは「金がかかるセックス」をする女性の感覚なのではないかと思います。
男性は「タダマン」がしたい女性に対して「しぶしぶお金を払う」、女性は「タダマン」なんてもってのほかという男性が「金」を払ってくれるので「しぶしぶ身体を差し出す」。
「金がかかるセックス」の構図は、おおよそこのようなものでしょう。
この「金がかかるセックス」の間の男女は、利益は一致しているのですが、見てわかるように、「タダマン」という感覚を巡っては、埋めようのない溝とズレをはらんだうえで性行為をしているというわけです。
タダマンを求める男性は厄介である
このような溝やズレを男性が理解していない、ということは往々にしてよくあることです。
たとえば、「風俗嬢に恋をしてしまう男性」というのがいますが、このような男性は、まさに「セックス」と「金」と「人格」の関係性についてまったく考えたことがない男性の代表のような存在でしょう。
風俗というのは「金を払ってするセックス」である以上、風俗嬢は「金」の機能によって「セックス」から「人格」を切り離しているのですが、風俗客である男性は「金」を支払ったことによって「セックス」から「人格」が切り離される、という感覚がいまいちわからない場合が多いのです。
「金がかかるセックス」をする女性が「セックスはしているけれど好きではない、なぜなら金をもらっているのだから」と感じている一方で、男性は「セックスをしてくれているのだから、自分のことを、もしかすると好きなのかもしれない」などと考えてしまう傾向があるのです。
なぜ「金」を支払うことで「セックス」ができるのか。そして、そのとき「金」によって女性がどのようにして「セックス」を受け入れているのかを考えて、男女の間に立ちはだかる溝やズレを自覚していれば、このような勘違いは起きないと私は考えています。
「セックス」に「金」が介在することの利点は、「セックス」から「人格」が取り除かれることにあるのであって、それゆえに「後腐れ」のない関係を築けるというところにあります。
ですから、「タダマン」というセックスを求める男性は、非常に厄介な存在であると言わざるをえません。
彼らは、この、「人格」と切り離した状態でようやく行うことが可能になった「セックス」の場から、「金」というものを抜こうとするのですから、これは、「しぶしぶセックスをしている」女性からしたらたまったものではありません。
金がかかるセックスと違うタダマンの難しさ
「タダマン」というのが、もし、「金がかかるセックス」の反語的な意味でしか定義できないのであれば、それは、「人格が介在している状態でもセックスをしてもいい」という風に女性が判断した場合にのみ成立する性行為、ということになってしまうでしょう。
となると、「タダマン」というのは、「愛があるセックスだから金銭なしでもオッケー」というようなセックスを指す言葉でしかないのでしょうか?それは、ある側面においてはそうなのかもしれませんが、あまりにも身も蓋もない言い方であるのも確かでしょう。
「愛があるセックス=タダマンである」などといった場合、「人格がともなった愛のある私達の金がかからないセックスを『タダマン』などと言わないで欲しい」というような反論が、カップルや夫婦たちから飛び出すことにもなるでしょう。
また、恋人同士のセックスにおいては、「セックスレス」という問題もあります。「タダマン」ができる関係性でありながら、セックスを必要としないというカップルは一定数存在します。
彼らからは、「じゃあ、『タダマン』をしないと、性行為を通さないと私達の愛情は証明されないわけ?そんなバカな話ってある?」と怒られてしまいそうです。
恋人相手、妻が相手だから、という理由で「『タダマン』オッケーである」と判断する男性の考え方も、一方では問題ではあるわけです。
このような「タダマン」思考によって、交際、結婚中の強姦としかいえないようなセックスをしてきた女性もたくさんいました。
私は「セックスはしたくない」というパートナーからセックスを要求された場合、「金」を請求してもいいのではないか、と考えることがありますが、となると「タダマン」についてはいよいよ、何もわからなくなってきます。
「金がかかるセックス」のある程度の見取り図のつくりやすさに比べると、「タダマン」という言葉は非常に難しい、というのが、ひとまずの結論です。
男性諸氏は、簡単に「タダマン」などといい、都合のよいセックスのヴィジョンを描き始めますが、そのまえに、最低限、「金がかかるセックス」とは何かについて考えたほうがよいでしょうし、「タダマン」が許されているとされている対象が本当に「タダマン」をしていい対象なのかどうかについての想像力を養う必要があるでしょう。