メンズ美容は外見を通した社会的配慮である
「メンズ美容」という、誰でも今すぐに始められる「男性の表面を整える」ことを目的にした基本的な実践から、すべての「モテ」がはじまるのではないか、と考えることがあります。
女性にモテたい、気に入られたいと漠然と考えていながらも、そんなものが存在するかどうかさえあやふやである「内面」などというものに賭けてしまうタイプは、大抵モテることがありません。
そして、「女性なんて外面しか見てくれないのだ」などと自分勝手に拗ねてしまい、より女性に嫌われるばかりの態度である「女性嫌悪」の男性が一人、また一人と誕生するというわけです。
こんなことをもうどれだけの男性が繰り返してきたのでしょうか。私はこの悪循環をなんとか食い止められないか、と日々悲嘆にくれている次第であります。
内面を捨てて外面を磨こう
「いつかは自分の内面の豊かさを理解してくれて、外面以外の部分を好きになってくれるような女性が現れるかもしれない。いや、現れるはずだ」と考えて、ただ待っているだけの男性のもとに、おそらく、そのような女性が現れることはないだろう、と私は考えています。
しかし、私は何も「そのような女性が存在しない」と言いたいのではありません。
むしろ、「そのような女性と出会える可能性はゼロではない」と言いたいくらいなのです。
ただし、「あるかどうかもわからない『内面』とやらにこだわっている人間が、それらの女性と出会える可能性はかなり低い」ということを避けることだけはできません。
私は、外見、外面、表面、表層といったものを重要視しています。
他者に対して開かれている自分の「外」の部分に興味を持ってもらわなければ何も始まらない、というのが私の持論であるからです。
このようなことを言い出すと「生まれ持ったルックスは変えることができない。不細工は生きている価値がないというのか!」というような、拗ねた男性からの意見が飛び出すかもしれませんが、もちろん、私はそんなことを言いたいのではありません。
生まれ持ったルックスばかりは、当然ながら「整形」などの外科的な手段以外では大胆に変えることはできません。
私自身、イケメンといわれるような生来の「美」を持った男性芸能人などの横にはとても立てないような見た目です。
「凡庸」というよりも、どちらかというと「不細工」に分類される顔であることを自覚しているつもりです。
しかし、どれほどの不細工な人間であっても、「表面」は、ある程度であれば、誰でも整えることができます。
「表面」さえ整っていれば、不細工な男性でもそれなりの見た目になります。私は「メンズ美容」の話をしたいのであって、先天的な「美醜」の話をここでするつもりはまったくありません。
表面を整えないと美徳を発見してもらえない
たとえば、街を歩くカップルを見てみてください。
女性の横にいるのは、本当にイケメンだけですか。
違いますよね。
「内面」を重視するような男性であれば「なんであんな男の横に、あんな女の子が」と忸怩たる思いで感じることのほうが多いのではないでしょうか。
街をゆくカップルで、いわゆるイケメン男性ではない男性を彼氏にしている女性は、では「外面」にまるで興味がなく、「優しさ」や「面白さ」や「男らしさ」というような、内面的とされるような基準で彼氏と付き合っているのでしょうか。
付きあう決定打だけは、もしかしたらそうだったのかもしれません。
「この人おもしろいな」だとか「優しいな」だとか、そういった内面に属すると思われがちな「美徳」を発見することは、たしかに付き合うことの「決め手」となるでしょう。
しかし、女性が、彼氏たちのそういった「美徳」を発見する入り口には、まず「表面」の問題として、「この人となら話してもいいか」だとか「なんとなく雰囲気がありだな」というような判断が先行してあったはずです。
そのような「先行する判断」を左右するのが、「外面」であることは言うまでもありません。
まずは、その「話してもいいか」と思われる地点であるところの、「表面」の領域で女性に受け入れられることが何よりも重要なのです。
男性がどれだけ優しかったり面白かったりしても、その優しさや面白さを伝えるための「機会」をつくることができなければ、それらの優しさや面白さといった「美徳」を女性に伝えることはできません。
「宝の持ち腐れ」というやつですね。
メンズ美容によって「社会に対する意識」としての「外面」を整える
男性が抱えているらしい「美徳」とやらを女性に伝えるための、そもそもの「きっかけ」である「表面」を作るための、もっとも簡単で、かつ、基本的な方法こそが、「メンズ美容」に他なりません。
洗顔や洗髪のやり方を見つめ直し、きれいな肌と、清潔な印象の髪の毛を維持する努力を怠らない。
このきわめて基本的な外面的配慮である「メンズ美容」から、すべてが始まるのです。
先程、私は「外見」に属するものを重視している、と言いましたが、これに関しては、「社会に対する意識」を重視している、と言い換えてもよいでしょう。
「メンズ美容」というのは、「外見」を整えることを通して、「社会に対する意識」を整える行為である、というのが私の考えです。
男性は、女性に比べると、「外見」というものが「社会に対する意識」を反映するものであるという自覚が足りません。
「メンズ美容」というものが出てくる以前は、とくにその傾向が強かったと思います。
女性という存在が、毎日、その外面的な魅力=社会的な自分を維持するためにどれほどの努力を払っているかについて、美容に気を使うことがあまりなかった男性はあまりご存知ではないでしょう。
むしろ、肌や髪の毛、爪などの状態をつねに美しく保つ、という女性たちの並々ならぬ努力は、多くの「女性嫌悪」的な精神性を持つ男性にとっては揶揄の対象にさえなってきた、というような事実さえあるのではないでしょうか。
メンズ美容は女性に対する礼儀でもある
男性による肌や髪の毛への配慮、「メンズ美容」の実践は、女性が「社会に対する意識」を「表面化」するためにどのような苦労をしているか、ということをある程度ではありますが、知ることができます。
とはいえ、男性の肌と髪の毛にまつわる配慮である「メンズ美容」などというものは、女性の美容に対する高度な意識に比べたら、その難易度は低すぎるくらいのものです。
もし仮に、「女性にモテたい」と思うのであれば、女性の十分の一でもいいので、肌や髪の毛などへの意識を持つのは、女性に対する最低限の礼儀ともいえるのかもしれません。
女性が「この人と話してもいいかも」と気を許すとき、女性は、その男性が「メンズ美容」を通して女性に対する最低限の礼儀をはらっている、という「社会に対する意識」を自然と汲み取っているのではないかと私は考えています。
女性が努力して獲得し、維持もしている外面的魅力=社会的配慮を通して、「この人は素敵だな」と感じて女性を選んできた男性が、同じように、外面的魅力=社会的配慮を通して判断されるのは当然のことではないでしょうか。
「メンズ美容」というのは、単に肌や髪の毛をきれいに整えるばかりではなく、そのような領域の問題を含んでいるようにも思われます。
メンズ美容の継続は美徳につながる可能性を持つ
そもそも、その程度の社会的配慮すら継続できないような男性が抱えているような内面的魅力など、はっきりいって「たかがしれたもの」ではないでしょうか。
社会的な配慮のバロメーターでもある外見的な魅力というのは、そのまま、その男性が抱えているかもしれない内面的魅力を担保するものでもあるのです。
どれほど高価で洗練された服を着込んでいても、肌や髪の毛に対する配慮が疎かであっては、高価で洗練された服が他者に対して放つであろう「社会性」が薄れてしまいます。
逆に、肌や髪の毛に対する配慮がしっかりしていれば、全身ファストファッションであってもそれなりの外見になるでしょうし、お金はかけていないが「社会的な男性」である、という印象を女性に与えることが可能となります。
もちろん、「メンズ美容」によって整えられた肌と髪の毛とともに、社会に対する意識を強くアピールすることができるファッションを身にまとうに越したことがないのは言うまでもないでしょう。
「内面」というものが、仮にもしあるとするならば、それは、自分の内側にあるのではなくて、自分と他者のあいだにある空間のなかに生まれるのだ、と私は考えています。
ですから、外見を整える、外面的な魅力を獲得する、ということは、私の場合は、そのまま、自分と他者の間に発生する内面的な魅力を獲得するということに直結しているのかもしれません。
メンズ美容を通して「モテ」がどうでもよくなる地点に立つ
正直なところ、私は、自分が実際に「モテる」かどうか、ということにはあまり関心がありません。ですが、「自分と他者の間に発生する社会性」という意味での「自分の外面的魅力」には強い興味があります。
「メンズ美容」というものは、「社会に対する意識」の反映であるところの外面的魅力を鍛え上げていくための土台のようなものです。
肌や髪の毛の手入れである「メンズ美容」という、誰でもすぐに始められる簡単な実践を継続するということは、「だらしない生活を律する」ということでもあります。
「モテようとして」という最初の理由がどうでもいいものとして消え去り、「そうしないと気分が落ち着かないから」、「だらしない一日を過ごしているように感じるから」、「社会に対してみっともない自分を見せているような気がするから」というような感覚を抱く地点までしっかりと「メンズ美容」を続けることが重要です。
その地点まで「メンズ美容」を続けることができた場合、モテまくるかどうかまではさすがに断言できませんが、女性が「この人なら話してもいいかな」と判断するような男性としての外見的魅力=社会的配慮が身についていることだけは保証したいと思います。